昔、佐和山に登ったこと⑨

そこで、素人の私にも分ったことは、この城は城全体を覆っていたであろう石垣が崩され、そのため、城が原形を留めないほどに破壊されて、山と同化して自然地形のようになっていたということである。
しかも、石垣の石は一つも残すことなく故意に抜き取られており、その破壊のすさまじさを示していた。
というのは、山頂から少し下ったところに二個の石垣の残石が忘れ去られたようにひっそりと残っていたからである。
それは、確かに、この城がかつては石垣作りの立派な城であったことをかすかに物語っていた。
石田三成は豊臣政権を担う奉行の中心人物で、佐和山城主になるにあたって秀吉から近江国内で犬上郡、坂田郡、浅井郡、伊香郡など十九万五千石の領地を与えられた。
さらには、近江国内での秀吉の直轄領七万石の管理を任され、また、同時に父の正継に三万石、兄の正澄には一万五千石をも与えられたことから、実質的に三十万石を領することになった。
石田三成は、佐和山城からほど近い近江国坂田郡石田村(滋賀県長浜市石田町)の出身とされている。
三成は佐和山城主になるにおよんで故郷に錦を飾ることになったのである。
それだけでも、領民は三成の佐和山城主就任を歓迎したことはいうまでもない。
また、三成自身も子どものときから佐和山城を見ながら育ってきたはずである。
その意味で、三成の佐和山城主就任は三成自身にとっても、また地元の領民たちにとっても特別な意味をもっていたに違いない。

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