外国人宣教師の見た日本の戦国時代⑦

ポルトガル人宣教師たちは安全を考え、次の候補地を探し、長崎の福田(長崎市)という港に目をつけたが、それを知った松浦家は大小数十隻の船を繰り出し、またも福田を襲撃した。
そこで、三度、ポルトガル人は港の候補地を探し、ついに福田の南にある長崎に注目した。
長崎は、外海から奥深く、湾の中に1000メートルくらいの岬が突き出ており、その両側は深江浦という入り江になっていた。しかも、このあたりの領主は長崎甚左衛門という大村純忠の娘婿にあたる人物で、入り江のずっと奥まったところに家臣たちと屋敷を構えていた。

ポルトガル船は、1570年に長崎に目を付け、翌1571年(永禄14年)からは毎年入港するようになった。
長崎の立地はマカオと酷似していた。
ポルトガル宣教師たちは、ゆくゆくは長崎をマカオと同じく日本における貿易の一大拠点として、外敵から守るべく、要塞化するつもりであったのだろう。
この長崎には、日本各地からポルトガル船の入港によって商人が集まってきた。
また、領主が大村氏であったため、平戸をはじめ各地で迫害された信徒も集まり、教会も建設され、繁栄した。
それにより、住民が増え、埋め立てが進み町が出来るようになり、日本中で一番キリスト教徒が多い地区となり、7万人の領民がほとんど大村氏の勧告や命令でキリスト教に改宗したという。

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