外国人宣教師の見た日本の戦国時代②

大航海時代、イベリア半島からポルトガルは東に、スペインは西に航路を取って船を進めた。
しかし、地球が球体である以上、両国はやがて同じ大陸や島で鉢合わせする可能性があった。
その場合の土地の領有権と帰属先をどうするのか、それを解決するため、「権利の主張」と「ローマ教皇勅書」という二つの手段が取られた。
新発見地に上陸して自国の国旗を立て、声高に領有を宣言する。
その後、地図に新発見地を付け加え、書簡や行政文書などに「ポルトガル国民の征服に属する地という一文を書き込む。
そして、新発見地に至るまでの航海領域にも支配権を主張することが必要であった。

一方のスペインもコロンブスの探検航海を機に、海外植民地獲得に乗り出していた。
この動きにポルトガルは自国の支配領域に強い排他性を主張するために「ローマ教皇勅書」を利用した。
中世のローマ教皇は、至高の権威としてヨーロッパ世界に君臨していた。
その権威は当時も絶大な威力を有していた。
ポルトガルがアフリカやインド以東に植民地を獲得して勢力を拡大するにあたって、ローマ教皇の発布する勅書は極めて重要な役割を果たした。
「ローマ教皇勅書」は当時の国際法ともいうべき、受け止められ方をしていたのであった。
そこでは、ポルトガルは海外への武力を伴った進出を正当化するために、カトリック世界の頂点に位置する教皇の権威と精神的支援を必要とし、教皇庁としても、カトリックの教勢を拡大し伸長させるためにも、ポルトガル国王の協力が必要であり、両者は利害を共有していた。

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