10・30講演会より 最後に

以上、見てきたように、武田氏は丸馬出を配した城を侵略地に数多く築き、敵を追い詰めていった。
丸馬出は武田氏の城の大きな特徴であると同時に、そこには武田氏ならではの独自の戦い方が凝縮されていた。
また、丸馬出を持った城は、それ自体が武田の城として侵略地にあって大きな存在感を有し、敵に大きな威圧感を与えていたものと思われる。
秀吉は聚楽第に儀礼的、装飾的な馬出を築き、武家関白の威厳を示す一方で晩年には大坂城の防御性を高めるために二の丸を強化する馬出曲輪を築いていた。
秀吉の次の天下人家康にとって馬出は戦う城として必要不可欠なものであった。
家康は強力な角馬出をもった城を大坂周辺、さらには主要街道に配し、豊臣家、西国の豊臣大名をけん制した。
巨大天守を持った駿府城の大改修、江戸城の大改修もそれを意識したものであった。
豊臣家が滅亡した後も、徳川家は豊臣大名への警戒を緩めることはなかった。
徳川家は、関東に重臣たちを配して、江戸の防備を固めるとともに東北会津を東北の要として、伊達・佐竹・南部・津軽氏ら北の外様大名への警戒を緩めることはなかった。
会津若松城は蒲生、上杉時代の城をベースにしながらも、それに加えて三方の虎口に三つの大きな角馬出を配し、戦闘力の強化をはかったことが分かる。
以下はその会津若松城の絵図である。

以上で、10.30講演会「馬出から何が見えるか」を終了します。

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