昔、佐和山に登ったこと④

石田三成については、江戸時代に著された『石田軍記』などには、「(三成は)江州石田村の地侍の子で家が貧しく、到底三成を養うことが出来なかったので、寺に送って小僧にした」などと描かれ、三成は貧しい家の生まれであることが強調されているが、これは最近の研究で大きく否定されている。 
最近の研究によれば、石田家は三成が生まれる百五十年以上も前から当時の確かな記録に登場している。
そこでは石田家は「山室保」というこの地域の荘園の代官として名を連ねており、そのことから石田家は坂田郡石田村に居住する土着の豪族、すなわち土豪であったと考えられている。
京都妙心寺寿聖院に伝来する過去帳には、三成の祖父は「前陸奥入道清心」、曽祖父は「前蔵人入道祐快」と記されており、その名は彼らが侍身分であったことを示している。
そこから、三成の父正継や祖父は武士として江北の領主で小谷城主の浅井家に仕えていたと考えられている。
これらのことから、石田家は石田村の領主であった可能性が高く、そこにはその身分にふさわしい屋敷があったことは間違いない。
この時代の豪族のスタンダードな屋敷というのは、約百メートル四方の方形の土地の周囲に高さが二~三メートルはある高い土塁と水堀を巡らし、土塁の角には櫓が建ち、土塁に囲まれた敷地の中に母屋や馬屋などの建物が建っているというのが普通であった。
まして、石田家はそこに領主として百年以上も住んでいたのであるから、それなりの規模をほこっていたことであろう。
事実、長浜市立博物館によれば、その字名から推定される石田屋敷の規模は約二千六百平方メートルほどで、少なくとも約七十メートル四方程の屋敷があったと推定されている。

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