慶長の山城 関ヶ原松尾山城2

今、東京オリンピック、メダルラッシュの日本の活躍が熱い。
いつも思うのは勝負は最後の最後までやってみなければ分からないということだ。
勝つべくして勝った戦いなど一つもない。
我々は歴史の結果を知っているから、勝負は初めから分かっているように思うが、渦中の人物は最後の最後まで油断できなかったはずだ。
慶長五年(1600)九月十五日、関ヶ原合戦の当日もそんな状況であったろう。
西軍石田三成方はすべて高地を押さえ、陣城を築き、土塁を構え、圧倒的有利な布陣を行っていた。
対して、東軍家康方は、黒田長政を除いて平地に布陣するしかなかった。
しかも、中山道、北國街道の隘路はすべて三成方に押さえられている。
こんな中で、兵を進め、無理に合戦をすれば、無残な敗北を期すのは目に見えている。
それでも家康は三成方の万全の構えに向かっていった。
そうしなければならない事情があるとしたら、それは、やはり、三成方の内応者を促すためであったろう。
このまま何もしなければ、内応者は動かない。いや、動けない。
そればかりか、内応者は三成方につく可能性もある。
家康も一歩も退くことはできなかったであろう。
家康方にはもう戻る本陣すらなかった。
退こうとすれば、途中には南宮山の毛利軍、その先には大垣城の兵が待っているのである。

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