「川角太閤記」巻2を読む 柴田勝家、前田利家を姫路に派遣する

大名衆より返事がないことを聞き届けると、大徳寺へ参詣を遂げられ、新しく建立した総見院の御影の前で一番に焼香なされたことを越前の勝家が聞いて、「もはや筑前をだまそうとしても中々だまされることはない。早く何とかしなければ」と、工夫分別なされて、岐阜での有様、今度の内証の覚悟の通り、すみやかに懺悔して、起請を以て理を尽くし、仲直りすべきであると思われた。
勝家組下の前田又左衛門は筑前とはよく通じている。
というのは、又左衛門の娘は二つの歳に筑前守がもらい、養子にしている。
使者としてこれ以上の者はいないということで、又左に播磨への使者をつとめさせることになった。
「又左に密かに頼みたい。別のことではない。播磨へ使いに行ってもらいたい。そのわけは、貴殿もあらあら分かっているだろうが、岐阜での有様、又、今度の上洛のとき、京都において筑前に切腹させようとした企み、我一人だけではなく、滝川左近、丹羽五郎左衛門、三七様など御兄弟中、共に行ったものである。
しかし、筑前殿は中でも勝家がその中心であると思われているようである」として早々と前田又左衛門を勝家の所より、筑前守殿への使者に立てられた。

前田又左衛門に先のことを申し含め、起請文を書いた誓書を持たせ姫路へ行かせたところ、秀吉は大いに歓待したということである。
秀吉は「お使いの様子は早々と承りました。秀吉は皆様と一味同心の覚悟です。」と言い「まずはゆっくりと逗留なされよ。中国長陣で、数寄屋はあばら家のようになりました。勝家様殿を歓待すると思い、路地の松など二三本植え替え、数寄屋を松の柱で掘り立て、直したいと思います」とのことであった。

又左衛門が言うには「秀吉殿からの返事は承り、勝家様にお届けしたいと思いますが、左様に御数寄屋などをお作り為されては、あたら日数が立ってしまいます。帰って、勝家様に逗留が長かったのはどうしてかと不審に思われますので、お互いのためにもよくありません。勝家様の歓待と申されるのはありがたいとは思いますが、早く帰り、秀吉殿のことを残らず伝えるのが一番と私は思います。(中略)これについては、勝家様に早馬をもってお尋ねあるべくと思います。五三日のうちに様子は聞こえてまいりましょう。」と。
そういうことで、又左衛門は、筑前殿の早馬を越前に立てられた。

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