佐和山城天守は想像図か

 彦根藩が江戸時代に行った聞書によれば佐和山城の天守は「五重」であったといい、その点が少し食い違ってはいたが、少なくとも、その外観は「大坂の陣屏風」に描かれている大坂城の天守を小さくしたような桃山風のしゃれた建物であり、西明寺のものよりはずっと現実味があると思われた。
 私は無理に無理を言い、頼み込んで特別にこの部分を写させてもらい、神官の方に何度もお礼を言って神社を後にした。
 後で聞いたのだが、この「社頭古絵図」の実物を見た人など研究者でもほとんどいないという。
 まして一介の素人である私が見せてもらえることなど本当に稀なことだそうで、私は本当に運がよかったとしかいいようがない。
 この『社頭古絵図』に描かれている天守閣については、今も研究者の間で評価が分かれている。
 その第一の理由はそこに描かれている天守が三層であるということ、それと、古絵図に貼られた「澤山城」という付札は後世貼られた可能性が高く、そのため、これは佐和山城ではなく、創建当初の彦根城の三重の天守を描いたものではないかという疑いがもたれているのである。

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