10.30講演会より②

以下の図は山梨甲府の武田氏館の初期のものとされている図である。

後に甲斐を領地とした徳川氏のもとで改修されたことから、現在は随分様変わりしているが、当初は二つの虎口前面に丸馬出しをもった構造であったとされている。
(この武田氏館図については千田嘉博監修、富永商太イラストのものを使用)

武田氏は侵略地、信濃、東海においても、この丸馬出しをもった城を次々に築き、上杉謙信、徳川家康を追い詰めていった。
一例として、川中島合戦を見てみよう。以下の図は川中島における武田上杉両者の城の配置である。

武田氏の城塞群は、海津城の背後を守るように配置されているが、これらの城は武田氏がこの地に入る前にすでに存在していた城である。そこから、武田氏は、これらの城塞の存在を前提にして海津城を築いたことが分かる。
千曲川対岸から海津城に入るには、渡しを渡り、海津城の東西にそびえる山を越えなければならない。
しかも、その山にはいくつもの城塞が築かれているのである。
海津城は、その山と山城に守られることを計算した見事な築城であった。

タイトルとURLをコピーしました