陸羽街道の国境を守る神社は関所だった?

実はここに上杉領境目の守りの実態を知る手がかりがあるのではなかろうか。
関山には上杉氏は手を付けられなかった。
それは、この関山周辺の地域はそれだけ村々の力が強く独立性が高かったからからだと考えられる。
それは先に示した関東下野から奥州に抜ける境目の三本の街道の防御についても同様である。
一本目の那須芦野を通り奥州に抜ける陸羽街道の下野・会津の境目白坂に奥州側と関東側の二つの「境の明神」がある。
この場所は東西に山が迫り、その狭い隘路を街道が抜けて行くという構造になっており、その隘路に沿って奥州側と関東側にそれぞれの神社が存在するのだが、そこは当然それぞれの関所となっていたはずである。
これらの神社の東西に迫る山を実際に歩いてみたものの、そこには何の遺構も見当たらない。
ここから、下野・会津の境目の陸羽街道は神社そのものが関として存在していただけで他に何らの防御施設はなかった可能性がある。
常識的に考えれば、関東から奥州に抜ける主要街道である陸羽街道の境目には城郭などの強力な防御施設が必要だと思われるが、ここにはそんなものは見当たらない。
そこにあるのは関所を兼ねたと思われる神社のみである。
果たして、そんな神社だけで敵を防げたのかと疑問に思うが、街道に沿って坊のような建物が建てられていた痕跡もあり、今よりは数倍厳しい警戒は取られていたことは推測できる。
また、神社という宗教的な存在は現代の我々が考えるよりはるかに大きな意味をもっていたのかもしれない。
そして、ここにも関山同様上杉氏という大名権力が入り込めない空間の存在がった。
そこでは、まさに奥州側と関東側にある村々が神社を通じてこの境目を守っていたのではなかろうか。
言葉を換えると、これらの村々を味方にしない限り、境目の防衛はできないことになる。
(那須境目の明神)
(白河境目の神社)
(境目の神社坊跡)

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