慶長の山城 関ヶ原松尾山城17

関ヶ原決戦前日、松尾山城に入ったのは小早川秀秋である。
小早川はどのような意図をもって松尾山城に入ったのであろうか。
そこにはいくつもの要素があったはずである。
松尾山城には西軍の総帥たるべき人物、例えば、大坂城の毛利輝元が秀頼を奉じて入ること。
輝元の出馬が困難なときは、その名代で毛利軍を率いて南宮山に布陣している毛利秀元が入るということ。
菩提山城が家康方の城になった段階で、垂井の防衛はより重要になったが、南宮山周辺には長曾我部、名束の兵もいる。
彼らを残して毛利秀元を入れる選択肢もあったろう。
だが、毛利秀元も長曾我部も南宮山とその周辺を動くことはなく、結果として松尾山城に入るべき人物はいなくなった。
ここで、最重要の城にもかかわらず、入れるべき人物がいなくなるという空白が生じることになったのである。
松尾山城に西軍の強力な武将が入れば、家康軍が関ヶ原を突破することは難しい。
逆に、家康軍に有利な、例えば寝返り確実な武将が入れば、戦況は一変する可能性がある。
しかし、その武将が合戦のときに本当に寝返るかどうかは家康自身にも分からない。
いくら誓書を交わしたとしても、そんなものはただの自己満足の安心感を満足させるだけの紙切れでしかない。
家康方としても、その武将が絶対に寝返るという保証がない限り、関ヶ原に進軍などできるはずはなかったろう。

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