川中島合戦雑記36(神仏パワーの争奪に勝利した信玄)

信玄は、その後、善光寺のみならず飯綱社や後には戸隠社まで手に入れ、合戦の勝利と武運長久を祈らせてた。
考えてみれば、信玄が家督を継いで最初に行ったことは諏訪の支配であった。
信玄は諏訪氏を攻め、滅亡させると直ちに諏訪大社を支配下におき、そこで武運長久を祈らせた。
信玄の軍旗といえば、有名な孫子の旗「風林火山」と諏訪明神旗「南無諏方南宮法性上下大明神」である。
信玄がかぶっていた兜も「諏訪法性兜」という諏訪の神を頭にいただいた兜である。
これらは、まさしく諏訪の神々の力をバックに戦を勝利するという信玄の姿勢を表している。
信玄はまず全国の諏訪信仰の本山である諏訪大社を支配下に置くことから出発し、次には全国の阿弥陀信仰の本山善光寺をも実力で支配したということになる。
それに加えて、飯綱社、戸隠社という修験信仰の本山にまで触手を伸ばし、力でこの支配にも成功している。
こうやって、信玄は当時の信濃のメジャーな神仏をことごとく手に入れ、その神仏の強力な霊力を背景に合戦の勝利と武運長久を祈らせた。 
信玄の軍隊にはこうして強力な神仏のパワーが宿り、それは兵士の士気を大いに揚げるとともに、敵には限りない恐怖を与えていったことだろう。
まさに、信玄の軍隊は神仏のパワーを背景に敵を圧倒していったともいえるのである。
その意味からも、この神仏争奪戦に信玄・謙信は共に絶対に敗れることなどできなかった。
謙信が善光寺の他の仏像や宝物を奪って越後に浜善光寺を築いたのも、信玄の善光寺のパワーを少しでも削ぐ必要があったからであろう。
神・仏の霊力がどちらに宿るか、それは戦国大名にとって死活問題であった。
それゆえ、謙信は善光寺周辺に城を築いてまでもそれを死守しなければならなかったのである。

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