慶長の山城 関ヶ原松尾山城3

オリンピックでは毎日熱い決戦が続き目が離せない。
そして現場では事前の予想など当てにはならない。
勝負を始めるまで何が起きるか分からないからだ。

慶長五年九月十五日の関ヶ原合戦もそうであったろう。
西軍は中山道、北國街道の隘路を塞ぎ、そこで東軍を迎え撃つ態勢を取っていた。
普通に考えれば、そんな中に攻めていくのは自殺行為である。
ここまでは、誰が見ても西軍有利であった。
ここで、数日東軍を食い止めれば、やがて、大津を攻めている立花宗茂ら一万五千の兵が駆け付け、丹後の小野木らも駆け付け、さらに有利になる。
それゆえ、家康は彼らが到着する前に短時間で決着をつける必要があった。
その前提になるのは、西軍内部の内応、つまり一番効果ある裏切り劇が約束されているということである。
これなくしては、東軍は西軍の強力な構えを突破することなど到底できない。
家康は、それを信じてここまで駒を進めたものと思われる。
西軍で一番の強固な陣地は何といっても松尾山城である。
ここに登ってみると、見事な縄張りを施された慶長の山城を見ることができる。
城の完成度は、玉城の比ではない。
この松尾山城こそが西軍の本陣たる場所で司令塔の役目をもった城であることは疑いがない。

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