佐和山城下「聞書」の謎25

さらには『彦藩並近御往古聞書』には「直孝公の時分は禅宗の修法大会の類ばかりではなく、伊勢講、頼母し講の類、多く人の集まることはやってはいけないという。」という記述がある。
これらのことから、井伊家は、石田家時代を含めこれまで伝来した書物、農地台帳を取り上げ、これまで行われていた神事、祭礼、仏事等一切を禁止とし、さらには、どのような趣旨のものであっても人が集まる集会などは一切禁止したことが分る。
しかも、「その外、南之郡、常楽寺町には本願寺の小寺があった。大人数集まっては法事を語っていた。この催しのことが聞こえ、御他領であるが、当家からお役人が遣わされ吟味があった。」(『近江彦根古代地名記』)と井伊家はここでも家康からの上意をもって領内だけではなく、他家の領地にまで、その干渉の手を伸ばしていた。
さらに、井伊家は領民たちに厳しい監視の目を光らせていく。
『彦根古絵図註』には「石田家の話をすることは厳禁、佐和山城の物語をすることまでもご法度であった。」とあり、井伊家は領民たちが石田家に関する話はもちろん、佐和山城についての話さえ一切することを禁止し、それを厳しく監視したのである。
このことについては、享保十二年(一七二七)に編纂された『古城御山往昔咄聞書集』の後書きに「昔、この地に井伊家が移られたとき、佐和山に関することは堅くご法度であったので、前々より老人たちが話し伝えたことはわずかであった。その間には口を止め、物語をしたこともあった。」とあることから、実際、長い年月にわたって、石田家、佐和山城に関する話が法度であったことがわかる。 

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