関ケ原合戦翌日の風景

首実験
『慶長軍記』
「合戦終わって、家康公は甲冑を付け、藤川台に床几にお座りになった。諸将参上し、種々の働きを申し上げる。福島正則曰く、本多忠勝人数扱い、・・・存外の外弱敵に候。そのとき、松平忠吉、直政の手を肩にかけ参上した。家康公は床几を立って、その手は如何したと申された。かすり疵ですと申し上げ、直政は合戦の次第をはばかりなく申し上げた。・・・・・」

『関ヶ原御陣略記』
「金吾中納言(小早川秀秋)は家老の平岡石見・篠沼兵庫・松野主馬に小姓四五人を召し連れて来たところ、家康公は床几よりお立ちになりご対面され、今日はそなたの協力があって勝つことができた。このことは江戸中納言(秀忠)も同じ思いで存ずべきであろうと仰ると、秀秋は頭を切に付け、忝き仕合せと申し上げられた。家康様は、これから佐和山を攻めることになるが、そのときは万事よろしく頼むと申し上げられた。これにより、秀秋は佐和山に向かった」

家康は関ヶ原合戦が終わると、大谷刑部の陣所に宿泊し、翌16日、関ヶ原を発ったが、破壊された八幡神社修復費として三千貫文を与え、領主竹中重門に対し、戦死した兵たちのために首塚を作り、神社の再建、その地の住民の鎮撫を命じた。
その日、大垣城二の丸にいた大坂方の相良頼房は三の丸の秋月種長、高橋元種とともに降伏を申し出、直政がこれを許可した。
大垣城本丸には三成方の福原右馬介、木村惣左衛門父子、筧和泉、熊谷内蔵助らがいたが、相良頼房、秋月種長、高橋元種の裏切りによって木村惣左衛門父子、筧和泉、熊谷内蔵助は殺害され、彼らはその首を土産に徳川に投降した。なお、福原右馬介は高野山に送られたという。(「水野日向守覚書」)

徳川軍は裏切り部隊の小早川、脇坂を先頭にいよいよ近江佐和山城を目指し進軍することになった。

タイトルとURLをコピーしました