『川角太閤記』巻2を読む 秀長、姫路に帰還する

次の日、美濃守(秀長)は越前の勝家のもとを発たれた。
播州にて歓待したように、二三里も北庄より送られたところに仮の館を建てられ、御馳走をなされたそうだ。
黒い馬、葦毛の馬、二つ鞍を置かせて、「まずまずの馬であるが、長い道のりなので使ってください」と勧められた。
美濃守殿が姫路を発たれるときに、秀吉が指図したのは、「お別れのときに出しなさい」と正宗の脇差を美濃守殿に託されたのを勝家に勧められた。
勝家はこれを戴き、播磨において又左衛門(前田利家)が秀吉に勧められなされた刀の時、筑前守殿より時宜に違わず、これは筑前守殿より直に下されたのと同様との時宜なので、柴田殿右に差していた脇差を抜き、小姓に持たせ、美濃殿より戴いた脇差を差し替えられた。

それから、互いにお暇いただいて、美濃殿は播州にお帰りになった。
秀吉は越前での様子をつぶさに聞いた。
数寄のときの釜はどのような釜であったか。
我らが知らない間に、勝家が安土において上様より拝領仕った釜であり、「姥口」という釜であると勝家は言われていた。
その釜は大振りで口広く、すこし口が沈んでいるように見える釜で、弾正忠信秀様より代々伝わっている釜である。
勝家、ある時、上様に「老後に及び、数寄を仕り、慰みいたそうと思います。もしよろしければ、御秘蔵のうば口の釜をお預けいただけないでしょうか」と申されたところ、「釜を惜しむ気持ちなどはないが、まだ持っていたいと思うので、今少し待ってくれ」とのことで、その時は下されなかった。
それより二三年経って越前の朝倉を滅ぼされ、その跡一円を勝家が拝領することになった。
勝家がそのお礼に安土を訪れると、そのとき、御釜を召し寄せ「その方が内々所望していたこの釜、今まで惜しんではいない。その方は百万石にもなり、この釜を持ってもよい身分になったので遣わそう」と、直筆の狂歌を御釜に添えられて遣わされた釜である。

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