「「川角太閤記」巻2を読む 秀吉の智恵比べ 

秀吉は考えて、宿札を殊の外たくさん書かれ、その札に羽柴筑前守鉄砲大将、弓頭、名前がある人はもちろん、名字もない人までも何某、誰がしと書きつけた宿札を洛中洛外に打ちまわされ、大津、伏見、深草、醍醐、山科、嵯峨、かような在々まで隙間なく打ちまわされた。
播磨を発ってから五日以前に宿札は打ちまわされたと申し来たった。
上洛の御供の大名・小名に至るまで、「これはどうしたも のか、外の人々を抱えられたようだ」と聞こえて来た。
「今度、筑前守を出仕させてはならぬ」と京中静まることはないとのこと。
勝家を初めとして皆々はお忍びで目付を下されたとのこと。
筑前守殿が考えるには、「必ず京中は宿札に驚くことであろう。そろそろ我が家にも目付を下される時分である。」そうであるなら、今、出陣するところと思って、陣の様に幟・指物は一円に帯させないで、人数二万ばかりで姫路を御発ちになった。
国々大名衆が付け置かれた目付の者は急ぎ、京都へ走り戻り、その主へ「かく」と申し上げた。
そうであるなら、まず吉法師様をのけ奉れと、勝家は下知し、岐阜を指して三七殿も、柴田を初め、敗軍の有様に見え、京中を夜のうちに引き払われたということだ。

筑前守殿はゆるゆるとその後へ上洛を遂げられたので、大名小名に至るまで、京中には一人も留まる者はない。
洛中町人に至るまで、もっての外、騒いだのも尤ものことである。
筑前守殿は京中にゆるゆると遊山して入られたところ、国々への大名衆へ使者を遣わされた。
「今度は岐阜より御上洛お目出度く存じます。上洛したところ、吉法師様のお供をなされ、洛中を夜に紛れ、岐阜を指して御下りなされたとの事、驚き入っております。その上は、大徳寺に参詣いたし、焼香などしたいと思います。ご返事をお待ちしております」と使者を発てられたので、大名衆は面目なしと思われた。
柴田殿を初めとし、返事は一通もないと聞いている。

タイトルとURLをコピーしました