「川角太閤記」巻2を読む 秀吉の企て

秀吉は、そのとき、播磨で牢人たちを集め、噂がたたないように、武具以下に至るまでもれなく内々で用意するよう仰せ付けられた。
柴田への返事として常ならばそのまま上洛すべきところを、勝家を欺こうと思われ、新しく寺や御影などを仰せ付けられるのが尤もと返事をしたが、その二つの作事が出来上がっても、秀吉は出来(しゅったい)する気はなかった。
ただ、武具以下を用意なさるために時間稼ぎもあってそのような返事をなさったのだとのことである。
お寺も御影も出来たので、重ねての勝家よりの触れ状には「お寺も御影も出来上がった。岐阜より吉法師様御上洛なされ、大徳寺において御焼香なさるべきために必ず御上洛なされたい。お供のご用意は御尤もである」と申してきた。
この寺「総見院」というのは、このとき建てたものであり、御影もその寺にあるという。

筑前守は、「勝家を初めとして、国大名衆もこの度は思いのほかの人数を連れて上洛してくることであろう。だとしたら、大名衆の国々へ目付を遣わさし置かれるべきである。はや岐阜よりご上洛なされた上は、国に留まる大名小名は一人もなく洛中へ集まることであろう」と分別なされた。
筑前守殿より国々へ付け置く目付などが帰ると、柴田殿は四五千程で上って来た。
そのほか、滝川左近殿はいか程、丹羽五郎左衛門殿人数には銘々付け分け、姫路へ罷り帰られた。
総大名の人数を考えると、予想より少なく思われた。
「例え、大軍であっても、別に気にすることはないであろう。柴田殿より使いが再三に及ぶまで上洛はゆっくりと待っていよう」と思っていたところへ、柴田殿を初めとして大名衆よりも秀吉の上洛は遅くなった。
「早々に御上洛なされ」と切々の使者が播磨へ立った。

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