佐和山城下「聞書」の謎27(終わり)

井伊家は佐和山入部に伴い、佐和山城を破壊し、佐和山城下にあった神社・仏閣を破壊し、城下にあった村を潰し、さらには、石田家時代の神事・仏事を禁止し、石田時代の文書を破棄し、さらには、石田家や佐和山城に関する一切の話をも禁じていったが、
そこには、石田三成に関する一切の痕跡を消し去り、三成を歴史上から抹殺しようとする意図が読み取れる。
そして、それが、井伊家による佐和山城及びその城下破壊の実態だったのである。
だが、この破城、町の破壊の事実、実態を今日まで伝えたのは、他ならぬ、石田時代にその城下に住んでいた名もなき領民たちであった。
彼らは自らの目の前で行われたこの破壊の事実を何代にも渡って語り継ぎ、その無念さ、嘆き、そして怒りを「聞書」という形で今日まで伝え残したのであろう。
これらの「聞書」は、石田三成や佐和山に関する話を禁じた井伊家の法度に触れるばかりか、井伊家への批判とも取れる内容が多い。
このことから、おそらく江戸時代を通じて、歴史の表面に出ることもなく、誰の目にも触れることなくひっそりと伝えられてきたものであったことが想像できる。
しかし、もし、彼らがいなかったら、彼らが語り継がなかったら、井伊家による佐和山城破城、三成の歴史からの抹殺の実態は闇に葬られて人々の記憶からとっくに忘れ去られてしまっていたに違いない。
まさに、彼らは新たな領主である井伊家からの武力による圧迫に表面上は屈しながらも、陰で命をかけて佐和山城破城、三成の抹殺の実態を今日まで語り伝えていたのである。

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