「川角太閤記」巻1を読む 山崎天王山の争奪

秀吉はお供に十騎ばかりを召し連れ、「光秀に夜討ちを入れたら、道は良い街道筋である。そうであるなら、返り夜討ちすべきである。味方の勢二町ばかり引きのけて、悉く人数を備え、一人も立たざるように、のぼり・指物無用である。道具以下も伏せさせよ。鉄砲の火縄の炎は見えないように隠し置き、敵の人数ばかりも味方の方へやり過ごし、つるべ鉄砲を撃ちかけよ。鬨を上げ追い崩せ。見合いは彦衛門、官兵衛はからへ」との御意をなされ、御陣に帰られた。

それより先手の大将中村一氏の所へ早打ちを立てられ、召し寄せられて仰せられるには「明日の合戦は山崎の町の上、勝竜寺近く、こもりの松山を定めて、光秀方より先に取るべきである。敵が取る前に、ほのぼのと明けるころには、松山を取れ」との仰せである。
明日の合戦の勝ち負けは、あの山を取れるかどうかである。
敵があの山を取れば、勝竜寺に仕掛けることは難しい。

中村一氏が承り、返事は「そもそもあの松山を明日ほのぼの明けるころに取り申すものである。早々と行って取りましょう。さし物、のぼりはいかに。敵陣より見つからないよう、幟、指物は山の八分目に置いて、そこから木の茂みについて二三十召し連れ、山の峠に上り、それより二十間ほど、敵の上る山、人の通う細道などいくらも見えることでしょう。この辺り、矢所と思われるところに昼紙を付けて置き、目印と決めようと思うが、木の枝枝を二町ほどの間、横切に折り懸け、味方の鉄砲の目当てと決め、良く野印を付けて置くことである。山に行った後に、敵が上るようなら、右の目当てに敵を引き掛け、鉄砲矢先下がりに討ちかけよ」と堅く申し付けられた。(中略)

その夜は夜討ちもなく、事は静かに思われた。
六月十三日いまだ夜深く秀吉は陣を立たれた。
先手は中川瀬兵衛、高山右近、塩川党二三人、下知見合いは久太郎殿に仰せつけられ、御舎弟小一郎殿、信勝様、一手に加われなされた。
旗本は御小姓衆、御馬廻りは蜂須賀彦衛門、黒田官兵衛その外の衆であった。

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