光秀方も山崎の東町の頭までも人数を打ち出し、互いに備えを立てたところ、山崎松山へ明智が鉄砲大将をさし登らせた。
そこを中村一氏が発見し、先の折り懸けの目印のところに行って、五寸すはひを良き時分と見計らい、真ん中と思われるところへ鉄砲を掛け、自身は討ち留め、立ち上がり采を取り、弓手へ言葉をかけ、「早く打て、者ども」と采配を揮ったので、左右一度に釣瓶、矢先を下にして打掛けた。
すると、明智の鉄砲は一撃ちもできずに、たまらない。真っ逆さまに足並みを立て敗北、それより、一氏は槍を入れ、鬨をどっと上げる。
秀吉先手衆は槍合わせをするとすぐに明智の備えを突き崩し、敵が一町ばかり退くところへ、再び先手衆が詰めかけ戦う。
そこに秀吉、味方も押しかけるべきと思われ、味方の槍の石突きが働くなるほどに瓢箪の馬印を詰めかけ、さらに敵を突き掛けられるなど後詰めをなされ、勝竜寺城の構えのところまで押し込み、そこで半時ばかり戦われた。
そうする間に山の手で戦っていた中村一氏と合流し、明智の軍は十文字に掛け破られ、思い思いに散々になっているところを、追い討ち、追廻し、討ち取っていった。
その後は桂川まで敵を追い詰め、川で死ぬ者が多かったそうである。

光秀は馬二十騎ばかりで川を渡り、居城の近江坂本城目指して小八幡へかかり、しる谷越へ馬の頭を引き向かわせ登られた。
そのころには、主従三騎になっていたところを、在在の百姓たちは先を争って、賞金目当てに光秀を槍で突き落とし、三人の頸を取ってしまった。
秀吉は淀川を上り、三十三間堂に落ち着かれ、人馬を休ませておられたところ、方々より届けられた頸が六、七百ばかりもあるかと思われたところに、明智の頸、溝尾少兵衛の頸、馬廻りの小姓の頸、三つが百姓より持ち込まれた。
秀吉はこれはこれをじっと見て「どうして討ち取ったのか」と尋ねられると、「しる谷越えに懸かろうとしたところを、三本松の下でこのように相成りました」と申し上げたところ、秀吉は「死骸を取り寄せ、首をつないで、かすがいを打って磔にせよ」とのことであった。
その後、悦びの勝鬨を上げよとのことで三度勝鬨を上げ、目出度く収まったとのことである。 
巻1終わり