関ケ原に今も残る不破の関の土塁

関ケ原には、奈良時代、東山道や伊勢街道からの外敵の侵入を阻むために構築された関があった。
不破の関である。
この不破の関は、藤古川を西の防衛線として取り入れ、その左岸北方に東西460メートル(北限の土塁)、そこから南北に東山道を挟んで432メートル(東限の土塁)、その南面に東西112メートル(南限の土塁)という規模の大土塁が周囲三方を囲む構造となっていた。
関はその大土塁で守られ、城塞のような構えをしていたようである。
延暦8年(789)、国家による関は廃止されたが、東山道を通過する人荷から関銭を取るための関はその後も存在し、土塁もそのまま残されていた。
そこから800年ほど経った関ケ原合戦当時もこの土塁は完全な形で残っていたものと思われる。
土塁のある関ヶ原「松尾」の地は当時石田三成の領地であり、領主である三成はこの土塁の存在を当然のように知っていたはずである。
これだけの防御遺構である。利用しない手はない。
そこで、関ケ原での合戦を早くに想定した三成は北限の土塁460メートルとそこから南北に432メートル続く東限の土塁を宇喜多秀家の陣所の防衛線として再利用し、新たな普請を加えたものと思われる。
関ケ原には今も、その土塁の遺構がよく残っている。
宇喜多秀家は毛利輝元と並ぶ石田方の中心勢力であり、戦場には1万7千の軍勢を率いていた。
その陣所は何より要害堅固で大軍を収容する広さが必要であったことはいうまでもない。
現在残る土塁は少し崩れてはいるものの、高さは約2メートル、基底部の幅は約5~6メートルほどの規模であるが、当時の高さは倍の4メートルくらいはあったのではなかろうか。
それに加えて、土塁上には柵などが設けられていたと思われ、敵方に向かって大きな脅威を与えたことであろう。
福島正則はこの土塁を前にして大変な苦戦を強いられたことであろう。
宇喜多の陣は我々の想像以上に堅固だったのである。
なお、この詳細は「歴史REAL関ケ原」にて。

タイトルとURLをコピーしました