城を水辺に築く理由

武田信玄が川中島支配の拠点として築いた海津城(長野県長野市)は千曲川河岸に築かれていた。
また、信玄がその後に築いた長沼城(同)も海津城より上流の同じく千曲川河岸に築かれていた。
それは一つには千曲川を城の堀として軍事的に利用したということであろう。
今も千曲川は川幅がざっと五百メートル以上はあるが、当時、千曲川には橋は架けられていなかったことから、大軍が川を渡るには大変な時間と労力を要したに違いない。そこでは余程の浅瀬を選んで渡るか、小船をつなぎ合わせて船橋のような臨時の橋を作るなどして渡るしかなかった。
しかも、当時の軍隊は兵隊ばかりではなく、食糧や日常物資を運ぶ小荷駄隊というのもあった。それは馬の背に荷物をくくりつけて物資を運ぶのであるが、馬を渡河させるのは人間以上に大変だったろう。
そんな川が城の前面や背面にあれば、敵は容易に攻めてはこれない。
そのため、その方面の防御は完ぺきでそこに気を使うことはない。それだけでも、城を築く立場からすればありがたいことであろう。
だが、城を河岸に築くということは、いいことばかりではない。それは、洪水の被害に巻きこまれる危険性が高いというリスクをも伴うからである。
事実、海津城も長沼城も何度も洪水の被害にあい、長沼城などはとうとう消滅してしまい、今では城跡もよくは分からないほどである。
海津城は江戸時代大きく改修されて松代城として生まれ変わったが、その城跡が現在まで残っているのは、松代藩主の真田氏が千曲川の大改修工事を行って流路を変えてしまったからである。
そのせいで、千曲川は今では城から七〇〇メートルほど北西を流れている。つまり、千曲川を城から離してしまったのである。
しかし、信玄の時代の海津城は千曲川の水で洗われており、洪水の度に大きな被害を受け、その度ごとに多くのメンテナンスを要したことだろう。
そんな大きなリスクを侵してまでも、千曲川河岸に海津城を築いた信玄の意図とはいったい何だったのであろうか。
それは、千曲川水系を積極的に利用しようとの意思の表れであったのではなかろうか。千曲川は犀川に通じているばかりか、上流に進めば、越後(新潟県)の信濃川に通ずる。つまり、川を使えばストレートに上杉謙信の越後に攻めこむことも可能である。
また、逆に下流に行けば信州小県・佐久郡にも通じ、犀川を使えば同じく信州筑摩郡や安曇郡、松本平にも行くことができる。
それらを有機的に結べば船による広範囲の物資の輸送や兵力の輸送も可能になる。物を大量に運ぶには陸路よりも水路の方が便利で早い。
海津城はそのような水運をもにらんだ構想で築かれた城であったのではなかろうか。

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