外国人宣教師の見た日本の戦国時代㊴

また、『大村家秘録』『長崎実録大成』によれば、大村純忠は龍造寺隆信との戦いにおいて、資金不足で軍需物資を準備できず、イエズス会から軍資金を借り入れたこと、借り入れた軍資金の返済が滞ったため、担保としていた長崎を教団に譲渡したことが述べられている。
ここにおいて、長崎は1580年(天正8年)教団領となり、教団の軍事拠点となった。
戦時にあって、キリスト教徒の領主を軍資金で援助すれば、領主本人だけではなく、領内のキリスト教徒の滅亡も回避できるとの判断から、軍資金の供与が奨励かつ実行されるようになった。
教団が武器を供与するには、教団自身がナウ船ルートから調達した各種の武器をある程度備蓄・保有していることが前提になる。
ヴァリニャーノは後に1590年(天正18年)の第二回全体協議会において、いかなる理由であれ、教団が大砲・弾薬・鉄砲そのたの武器や戦争資材を所有したり、キリスト教徒領主のためにそれを調達することを禁止するが、それはそのままそのような事実があったことを何より物語っている。(「宣教師追放令」から3年後)
そこでは、教団所有の日本にある大砲を一つ残らずマカオへ送り、同地で売却することが決まり、教団は秀吉からの対日武力征服の嫌疑を晴らそうとした。

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