佐和山城下「聞書」の謎5

慶長六年(一六〇一)彦根井伊家の祖、井伊直政は家康より石田三成の旧領の内十五万石と関東上野国(群馬県)で三万石、計十八万石を宛行われ、関東上野高崎城から佐和山城に入った。
佐和山城は当時、関が原合戦で落城しており、山頂にあった天守閣をはじめ本丸の建物のいくつかは焼けていたようであるが、その他はそのまま残っていたようで、直政はまずそこに入ったのである。
彦根市に残る聞書で、筆者年代ともに不明であるという『当城下近辺絵図附札写全』『彦根古絵図註』によれば、佐和山城は落城したといっても、石田三成が住んでいた御殿や侍屋敷は所々に残っており、直政は御殿に入り、家臣たちはかつての石田家家臣が住んでいた侍屋敷に入ったという。
また、『古城御山往昔咄聞書集』によれば、佐和山城二の丸には直政の家老の木俣土佐守が、三の丸には中野越後守が入ったというから、城はまだ十分に使える状態にあったのであろう。
さらに、『淡海古説』という聞書には、「直政公が佐和山に御移りになるときに、石田三成時代の二の丸櫓門、櫓、馬屋、薪蔵、廊下、橋など焼け残ったものを修理して」とあることから、佐和山城は修理すれば十分使える状態であったことが分る。

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