北の関ヶ原と忍者

慶長五年(一六〇〇)関ヶ原の前哨戦ともいうべき、家康の上杉攻めにあたって、会津と関東の境、那須(栃木県)黒羽城には、岡部長盛が甲賀衆百人を、服部保英が伊賀衆百人を率いて入城していた。
ここから、黒羽城には二百人という大量の忍者が配されていたことが分かる。
彼らは当然上杉領の情報収集が目的であろうことから、黒羽城はその拠点であったことが推察される。
黒羽城はもとは国衆の小さな城であったが、徳川氏によって大改修され、本丸はグランドのような広い曲輪に生まれ変わり、虎口は二重枡形形式を取り入れた厳重な構えになっていた。
また、周辺には今も徳川軍の兵が入ったと思われる陣城がたくさん残されていて、当時の緊張感を伝えている。
ここから、家康は会津の上杉と本気で戦おうとしていたことがうかがえる。
このときの、伊賀・甲賀忍者の活躍に関しては具体的な話は伝わってはいないが、『浄光公年譜』によれば、岡部長盛や服部保英は上杉方の城を見分するめに地元那須の者(百姓衆か)を度々遣わしたが、誰も帰って来る者はなかった。
なぜ、岡部長盛や服部保英は忍びではなく、地元那須の者を送り込んだのであろうか。
それは、地元の村々は上杉氏に協力しており、いわゆる「よそ者」が入り込む余地はなかったからであろう。
そこで、服部保英は自分の配下の伊賀者から三人を選んで上杉領に遣わしたところ、城中の様子を詳しく調べて帰還し、城の広さや険しさ、兵数、武器や玉薬の数までも手に取るように語り、城を攻め落とすのは容易でないことを報告した。
さすがプロの忍者である。仕事をきっちりとこなしている。
彼らによると、先に上杉領に送った那須の者は城の大手で磔にされていたという。
ここでいう上杉の城がどこかは分らないが、那須から一番近い上杉方の拠点は白河小峰城である。
ただ、その前線に白川城があり、ここが大きく改修されていることから、上杉の兵が置かれていた可能性があり、この城であったとも考えられる。

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