青梅御岳山は城だった?

東京郊外にある青梅御岳山、八王子高尾山は共にハイキングを楽しめる山として昔から人気が高い。
そこでは、東京都とは思えないほど周囲に山々が連なり、空気もおいしく、山下には清流や湖があるなど自然の恵みが豊富で、山で採れる山菜などを使ったうどん、そば、さらには山の名物料理なども楽しめ、今や自然のレジャー施設となっている。
しかし、戦国の昔、修験道信仰の聖地であった青梅御岳山には実は城が築かれていた。
この青梅御岳山が城であったことを発見したのは、城郭研究家の中田正光氏である。
ただ、幕末に著された『江戸名所図会』には御岳山について「御嶽社を鎮守として構えし城跡なり」とあり、御岳山が城跡ではないかという認識がすでにあったようである。
「御嶽社を鎮守として」というのは、まさに神の守りを背景にした城という意味であろう。
さらには、大正時代に『武蔵野歴史地理』を著した高橋源一郎氏もその書の中で、「山中諸所に堀切がある」とし、御岳山が城ではないかという疑いをもっていた。
それを縄張りの上から城と断定したのが、中田正光氏であった。
御岳山を城として考えると、御嶽社のある山頂付近は何段かの平坦地、つまり郭の構造になっており、今は埋められているものもあるが、それに連なる尾根には堀切が設けられ、敵を遮断する構えとなっていることが分かる。
だが、問題は、なぜ、修験道信仰の聖地が城の構えになっているのか、いや、なぜ、そこに城を築く必要があったのかということであろう。御岳山を城とした場合、そこのところがこれまで合理的な説明ができなかったといえる。
聖なる山はそれ自体が御神体であることから、そこに逃げ込めば、敵は神罰を恐れて攻めてくることはない。
つまり、聖なる山はそれ自体がアジールで、そこにわざわざ城を作る必要などないと思われるのである。
しかも、御岳山は、今もロープウエイで登るほどの標高929メートルの高山で、敵が攻めてくるには高く険しすぎるようにも思える。
だが、戦国時代、この御岳山は八王子滝山城主北条氏照の支配下にあり、連絡用の番所として、当番の兵が交替であたる「番城」であったことが分かっている。(中田正光『村人の城・戦国大名の城』)
そこでは、緊急時などには、高山ならではの地の利を生かして、のろしを上げたり、鐘を突いて、周辺に危急を知らせることなども行われていたのであろう。
さらには、この御岳山も山下の民衆たちが緊急時に避難する場所でもあった。(『同』)
何より御岳山は聖なる山であり、神が守ってくれる山であった。
御岳山を城郭構造として敵と戦えるほどの構えにしたのは、北条氏であったと思われる。
それは、御岳山が北条氏にとって重要な番城であると共に、北条氏が民衆を積極的に守る姿勢を示したということなのであろう。
また、御岳山は修験道信仰の聖地であることから、当然、北条氏は修験者たちをも支配下に置いていたものと思われる。
彼らは、諸国を旅し、そこからの様々な情報をもって、御岳山にやってくる。
携帯電話も無線機もない戦国時代、彼らのもってくる情報はまさに北条氏にとって宝の山だったはずである。また、彼らを使って意図的に情報操作を行うこともできたはずだ。さらには、彼らに書状を託すこともあったろう。
いずれにしても、北条氏にとって御岳山は幾重にも重要な場所であり、同時に民衆の避難場所として、民衆を守る城であったことは間違いない。
この聖なる山がそのまま城郭化した例は、福島県白河市の関山にも見られる。
関山の近くには有名な白河の関があったと推定され、関山はそれを眼下に見下ろす標高619メートルの山である。さらに、関山の山頂には天平二年(730)聖武天皇の勅使により行基が創立したと伝わる満願寺という古い寺院がある。
この白河の地は関東と奥羽の境目に位置し、ここから先が東北地方となる古くからの交通の、そして軍事の要所であった。そこでは、境目にある関山は当然軍事上要衝の山であったことだろう。
その関山を実際に訪れてみると、山頂や尾根に郭や堀切が存在し、そこが城であったことが分かる。
つまり、関山は山自体が満願寺を有する信仰の対象であると同時に、合戦時は麓にある村々の人々が避難し立て籠もる村の城であったと思われるのである。
ここでいう村の城というのは、村人が自らの自衛のために築いた城のことであるが、ここでも御岳山同様聖なる山が城郭化している。
ただ、関山は交通の要所にあり、本来であれば、境目の城として領主の手によって強力な普請が加えられ、堅固な縄張りをもった城にしなければならないと思われるのだが、城は古い形態を伝えているだけで改修された跡はほとんど見られない。そこは、ただ、堀切と郭の城壁(切岸)だけで敵を防ぐという簡単な構造となっている。
そこで、考えられることは、関山は領主が手を付けることができない神聖な場所であったということであろう。
つまり、この関山周辺の地域はそれだけ村々の力が強く独立性が高かったと考えられるのである。
ここからも分かるように、戦国時代においては、村人と領主は単なる一方的な従属関係ではなく、両者は互いに緊張関係にあり、村は条件次第では敵に回ることもあった。
それゆえ、領主たちは彼らの年貢を半分にするなど様々な条件をつけて懐柔し、彼らを味方につけなければならなかったのである。

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