慶長の山城 関ヶ原松尾山城5

関ヶ原における松尾山城の評価はもっと高くてしかるべきなのではなかろうか。
関ヶ原での合戦を睨んで築かれたと思われるあれだけの山城遺構は本当に貴重である。
もちろん、この松尾山城は小早川秀秋が築いたものではない。
関ヶ原で東軍を迎撃するために考え抜かれて築かれた城であることは間違いない。
この松尾山城と同時期に築かれたと推定される精緻な縄張りをもった山城がもう一つ存在する。
それが、関ヶ原の入り口、美濃垂井にある菩提山城である。
この城はもともとこの地の領主であった竹中氏の居城であったものを大きく改修して築かれたものである。
当時の竹中氏は秀吉の懐刀と言われた竹中半兵衛、そして嫡男重門である。
重門は自分の代になって、山城であった菩提山城を廃して、山麓に館城を築きそれを自らの本拠とした。
そのため、菩提山城は関ヶ原合戦のころは廃城となっていたのであるが、その立地に注目した石田三成らが関ヶ原の入り口である中山道の隘路を抑えるために大改修したものと思われる。
もちろん、そこでは、領主である竹中重門、そしてその領民の協力がなければ、城を築くことなどできない。
当時、竹中重門はまだ石田三成方であった。
実は、菩提山城と松尾山城にはいくつかの共通点がある。

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