川中島合戦雑記35(善光寺そのものを甲斐に移した信玄)

『甲府善光寺建立記』によると、信玄は川中島からの撤退に際して、本尊善光寺如来をはじめ寺内にあった諸仏を持ち去り、はじめ佐久郡禰津村(東部町)に移し、永禄元年(一五五八)甲斐上条村法城寺に移し、それから甲府の仮屋に移し、永禄八年(一五六五)に甲斐善光寺が完成するとそこに移したという。
当時、本尊を移すと寺も移ると考えられており、まさに信玄が善光寺の本尊を我が手に携え帰国したことはまさに善光寺そのものを持ちかえったと同じことであった。
それに対して、謙信も仏具・仏像を持ちかえっているが、謙信が持ちかえった仏像などを安置するために建立した浜善光寺は、その門前に信濃からたくさんの移住者が集まってきていたという。
彼らは、信濃善光寺を慕って、越後に移住したのである。
しかし、信玄は善光寺の本尊そのものを持ちかえった。
その本尊が甲府に入ったとき、甲斐の民衆すべてがそれを狂喜して歓迎したことが永禄元年当時の日記(『塩山向岳禅庵小年代記』)に綴られているが、それはまさに実質的には善光寺そのものの甲斐への移転に外ならなかった。
信玄は善光寺本尊とともに善光寺を支配していた栗田氏はもとより、経衆・中衆といった僧も甲府へ移し、大本願の智浄尼をはじめ、多くの僧尼衆や門前住人たちも一緒に甲府に移り住んだ。
まさに、信玄は本尊だけではなく善光寺の機構までそっくり甲斐に移したのであった。
こうして、川中島にある善光寺は本尊のないただの伽藍だけになってしまった。
善光寺の支配はまさに信濃一国の支配の象徴というべきものであり、善光寺を手中にした者のみが、川中島、そして信濃一国を手中にすることができるということを信玄は宣言したともいえる。

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