川中島合戦雑記23(川中島の諸城1)

川中島の山間部を見渡すとそこには大小の領主が築いた城が多く存在していることが分かる。
その城跡は現在でも忘れ去られたように山中にひっそりとその跡を留めている。
千曲川以南の埴科郡、後に武田信玄が海津城を築く英多荘(松代)の地には、西の標高六九五メートルの鞍骨山山頂に清野氏の本城鞍骨城、天城城、山頂から東に派生する尾根上に西条氏の西条城(竹山城)、山頂西の尾根上には雨宮氏の雨宮城(唐崎城)、西南に倉科氏の鷲尾城がある。
ちなみに、上杉謙信が布陣したとされている妻女山は鞍骨山の北東の尾根の山頂で、至近に天城城が迫っている。
また、同じく松代の東にそびえる標高七八一メートルの尼飾山山頂には東条氏の尼飾城があり、そこから西北の山に寺尾氏の寺尾城、金井山城がそびえていた。
ここでは狭い地域にもかかわらず上記のようなたくさんの城が築かれていた。
これらの城は後に武田信玄が築くことになる海津城をそれぞれ見下ろす位置にあり、信玄としてはこれらの城の存在を前提にして松代の地を選び海津城を築いたものと思われる。
また、鞍骨山の西、標高六五二メートルの一重山山頂には屋代氏の居城屋代城がそびえていた。
その屋代から千曲川を渡り川中島に入ると、八幡河原を見下ろす佐野山に佐野城があり、そこから北西方向に、千曲川に沿った山伝いに桑原城、小坂城、塩崎城、篠ノ井石川城と続いている。
佐野城は弘治元年(一五五五)の川中島合戦の折りに武田軍が入った城であり、塩崎城は先に見た大塔合戦の際、小笠原軍が入った城で、後の永禄七年(一五六四)武田信玄がここに本陣を置き、謙信と対峙していたことが分かっている。
『戦国武田の城』(洋泉社)を見ていただければわかるが、塩崎城はそんなに古さを感じず、改修されたものと推定されるが、これらの城は武田氏が川中島に進出するにあたって、川中島の防衛ラインに組み込まれていったものと思われる。

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