川中島合戦雑記21(善光寺をめぐる二大勢力)

以上のように、川中島善光寺平には村上氏の勢力が大きく浸透していたことが分かる。
村上氏は十五世紀後半には千曲川・犀川の合流点までの川中島にその勢力を伸ばし、文明年間(一四六九~八七)には犀川を越えて市村・風間まで進出し、さらには小県にも進出をはかろうとしていた。
それに劣らず奥信濃を中心に勢力を持っていたのが高梨氏であった。
武田信玄が進出してくる以前の川中島周辺は村上氏と高梨氏の二大勢力によって支配されていたといってよい。
村上氏は武田氏が川中島に進出してくる以前は勢力を接する高梨氏とは大きく対立していた。
両者の対立は古く、『王代記』によると両氏は善光寺の支配をめぐって明応四年(一四九五)に対立しており、このとき、高梨政盛は善光寺を焼き、その本尊である善光寺如来を本拠地中野の地に持ち去ったという。
しかし、その後、高梨氏が悪病にとりつかれたため、三年もたたないうちに本尊を善光寺に返還したとされている。
このとき、高梨氏は中野に新善光寺を建立し、それが現在の南照寺であるといわれている。
村上氏の祖は寛治八年(一〇九四)、信濃に流された源盛清の子孫とされており、十四世紀半ばには北信地方において大きな勢力をもっていた。
村上氏は同族の栗田氏を通して信濃第一の都市善光寺一帯を早くから支配していたため、この地を押さえたいと思う代々の信濃守護の標的になっていた。
大塔合戦の折り、小笠原氏が善光寺に入ったのも、善光寺周辺から村上氏の勢力を一掃する目的があったと思われ、これ以前に信濃守護をつとめていた上杉朝房が応安二、三年(一三六九~七〇)にかけて同族の栗田氏の居城を攻撃したのも同様の目的があったものと思われる。
善光寺の至近にある栗田城が、厳重な構えになっていたのは常にそのような攻撃に備える必要があったからであろう。

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