この大文字一揆に加わって守護小笠原氏と戦った栗田氏は村上氏と同族で、裾花川下流に栗田城を構え、至近にある平芝の守護所と対立していた。
栗田城は現在長野市栗田の日吉社境内に巨大な土塁の一部が残されているが、そこは守護所があったと推定される中御所のすぐ西に位置し、当時は相当な規模を誇った城郭であったことが想像される。
それもそのはずで、この栗田氏は十五世紀半ばくらいから当時善光寺の本寺である三井寺が善光寺の管領権を失った後、善光寺別当を称して善光寺を事実上支配してきた領主なのである。
この栗田氏は当時「里栗田」と呼ばれていたが、その一族は以前より戸隠顕光寺をも支配しており戸隠に居住して「山栗田」と呼ばれていた。
つまり、栗田氏は領主という武士でありながら別当という形を取って北信の二大寺院ともいうべき善光寺と戸隠顕光寺を支配してきたことになる。もともと村上氏であった栗田氏が栗田の姓を名乗ったのは、その所領が栗田郷にあったからであるといわれている。
 戸隠社はもとは井上氏が別当をつとめたいたが、二十九代別当のときに戸隠大衆との間に合戦が起こり、そこから戸隠への影響力を徐々に失っていきやがて栗田氏に別当をとって代わられるようになった。
このため、井上氏と栗田氏との確執は強く、井上氏は文永五年(一二六八)に善光寺を焼き払っているほどである。
栗田氏は村上氏と同族でもあることから、善光寺も村上氏の勢力下にあったことと思われる。
村上氏の勢力はさらに犀川を越えた風間、市村の地まで及んでいたとされている。
越後に連なる奥信濃の地は栗田氏と反目を繰り返していた井上氏をはじめ須田氏、高梨氏が千曲川東岸の亘理・小柳(いずれも長野市)以北を支配し、千曲川西岸の長沼・赤沼(長野市)から南郷(上水内郡豊野町)以北は島津氏が支配していた。(『長野県史』)島津氏はかつて村上氏とは主従関係にあったため、高梨氏とは対立していた。
 市川氏は志久見郷と野沢近辺(下高井郡)を所領とし、中先代の乱と大塔合戦では小笠原方について高梨氏と一線を画し、その後、武田氏の進出に際しても上杉・高梨方ではなく武田方についている。
また、犀川以北から奥信濃との中間地には保科、川井、馬島、横尾氏らがおり、彼らは村上氏には直接支配されてはおらずある程度の独立を保っていた。(同)