川中島合戦雑記5

川中島合戦は、上杉謙信率いる上杉軍一万三千が武田軍の本陣海津城を見下ろす妻女山に陣を布き、武田軍がその背後を衝くため一万二千の兵を差し向けたことから始まっている。
妻女山は武田軍の領地の真っ只中にあり、そこに謙信が布陣するなど常識ではとても考えられない。
その意味では、謙信の布陣は確かに武田軍の裏をかいた作戦といえる。
だが、実はこの話も軍記書である『甲陽軍鑑』だけにある話で確かな史料にはまったく見られないものなのである。
妻女山は今も長野市松代町にあり、そこに実際登ってみると、眼下に川中島や海津城(松代城)を見渡すことができ、陣を布くにはかっこうの場所であることがわかる。
もし、この場所を敵に占領されると、海津城の動きは筒抜けになってしまい、その機能は失われてしまうことになるであろう。
なるほど、謙信が危険をおかしてまでも妻女山に登ろうとした意味も分かるというものである。
だが、妻女山に登ってみると、もう一方で、ここに本当に上杉軍が陣を布いたのかという疑問がわいてくるのも事実である。
その一つは、妻女山は標高七百メートルの鞍骨山が北東に張り出した尾根の山頂であり、独立した山ではないということである。つまり、妻女山は鞍骨山のどこか他の尾根に取り付けばそこから簡単に登れる、言葉を変えれば、妻女山は敵がどこから攻めてきてもおかしくない地形であり、妻女山に陣を布くとしたらそれら尾根のすべてを警戒しなければならないことになる。
まさに、妻女山は攻めやすく守りにくい山なのである。

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