外国人宣教師の見た日本の戦国時代㉜

ザビエルは、日本人が武器を大切にして尊重している事実を知った。
そこで、周防での布教許可を求めて大内義隆を訪問するとき、銃(「三つの砲身を有する高価な火打石の鉄砲」を献上して、布教許可を得た。
これによって、イエズス会士は、贈答品の武器が日本では絶大な政治力を発揮することを見抜いた。
こうした銃などを用いた「教団武器外交」の目的は、有力領主から布教許可を獲得して布教を行い、信者を獲得して教団の地盤固めをすることにあった。
それは、日本人にとっては、ただ珍しい南蛮の品々を運んでくる南蛮人でしかなかった。
イエズス会はザビエル以来、試行錯誤を重ねながらも、1570年(元亀元年)までには、3万の日本人が改宗し、九州から畿内までの西日本を中心におよそ400の教会が開設されている。
また、イエズス会士も1565年(永禄八年)では12人に過ぎなかったが、1576年(天正4)には、22人、1579年(天正7)には55人に増えた。
しかし、在地領主の間で繰り広げられた戦争と、その惨禍への危機感が、教団の軍事活動を本格化させ、イエズス会士は「神の使者」から「死の商人」へと変貌させていった。

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