徳川最前線の構築

家康は七月二十日に江戸に入るが、徳川軍の先鋒である徳川譜代の重臣酒井康政は七月十五日、徳川本陣となる宇都宮からさらに北にあって会津・下野国境に近い大田原城に入った。
家康としては、まず、那須の中心拠点の一つである大田原城を押さえ、そこに先鋒軍を入れ、その城主である大田原晴清をはじめとする那須衆を完全に取り込む必要があった。
これに伴い、地元の国衆である那須衆、大田原・大関氏・伊王野氏らは必然的に徳川傘下に入ることになった。
というより、そうせざるを得ない状況に追い込まれていったというのが正解かもしれない。
ただ、このとき、前線とした大田原城はこの時点では、小さな城で、大軍を収容できる規模はなかった。
徳川軍は、城の拡張・普請から始めねばならなかった。
現在見られる運動場のような巨大な本丸はこのときの改修によるものであろう。
徳川軍は前軍として家康の嫡男秀忠が二十二日に宇都宮城に入り、後軍の家康は二十四日に小山城に入るが、那須衆の大田原氏・大関氏・伊王野氏、さらには芦野氏、那須氏、福原氏らはいち早く秀忠に拝謁し、徳川方として戦う意思を表明した。
さらには秀忠の指示を受けて小山の家康にも拝謁し、家康からは太刀や金子を贈られ、ここに上杉に対する最前線の防備を担うことになった。
最前線というと聞こえはよいが、上杉軍が攻めてきた場合、徳川方の先鋒として徳川軍の楯になり玉砕をも覚悟しなければならない立場を取らされることになったのである。

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