佐和山城下「聞書」の謎3

明けましておめでとうございます。
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今年もつれづれに体の続く限り、語っていきたいと思います。
さて、昨年末から述べてきた「聞書」についてですが、「聞書」は何らかの原本をもとにして写本として今日まで伝わっていると考えられていることから、その原本となる資料は早くから存在していたものと思われる。
そこに共通しているのは、石田家が滅び、井伊家が彦根に入って来て間もないころの慶長六年(一六〇一)から元和、寛永年間(一六一五~一六四三)くらいまでの江戸時代初期の彦根に起こった事件を描いているということである。 
そこには、彦根城主井伊家が佐和山城を破壊し、彦根城を築き、城下町を作る過程で起きた様々な事件が克明に記されている。
それは、恐らく事件の当事者でなければ知り得ない出来事ばかりで、これらの「聞書」がなければそれらの事件・事実はとっくの昔に闇に葬られ、人々の記憶から忘れ去られてしまっていたに違いない。
それだけに、これらの事実を、例え伝承という形にせよ、後世に残そうとした佐和山城下の人々の執念というかエネルギーをそこから強く感じないわけにはいかないのである。
例えば、『古城山往昔之物語聞書』によると、佐和山城を破壊したのは石田三成の後に彦根に新たな領主として入ってきた井伊氏であったことは間違いない。
同様に、石田村も当時は彦根藩領であったことから、石田屋敷の破壊、そして石田家の墓地の破壊についても彦根藩主井伊家が深く関わっていたと思われる。

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