戦国の名城 滝山城

東京八王子市の郊外に滝山城という平山城がある。
滝山城は関東の覇者北条氏の築いた戦国の名城として城郭研究者の間では有名な城で、全国からわざわざこの城を見に来る人も多い。
現在、そこは都立公園になっている関係でよく整備され、桜の季節には人が絶えない。
近年、この地元にNPOの「滝山城跡群・自然と歴史を守る会」が発足し、その方たちの手により、城内に繁茂する雑木や雑草、篠竹がきれいに刈られ、景観もすっかりよくなった。
また、守る会では定期的に城の見学会を行うなど、滝山城の歴史的価値を広く知らせる運動も展開している。
筆者も見学会には何度か参加しているが、「戦国時代の城がこんなに考え抜かれて築かれているとは知らなかった。」とか「何もないと思っていた滝山城にこんなすごい仕掛けがあるなんて驚いた。」など初めて戦国の城と出会った方たちから感嘆の声が寄せられている。
この城跡は江戸時代を通じて人の出入りが禁止されていたこともあって、その遺構が今日まで実によく残り、まさに、戦国の見本のような城となっている。
この城の築城者は北条氏照、あまりメジャーな人物ではないが、武田信玄や上杉謙信とともに戦国の名将の一人とされた北条氏三代目の当主氏康の三男である。
この氏照は、兄で四代目当主の氏政とともに豊臣秀吉に最後まで戦いを挑んだ猛将で、天正十八年(一五九〇)北条本家の小田原城(神奈川県小田原市)が秀吉に屈服すると、その責任を取って氏政とともに切腹させられている。
普通であれば、北条家の現当主である五代目氏直が責任を取るのが当然だと思うが、秀吉はその氏直は命を助け前当主の氏政、そしてその弟の氏照のみを処罰している。
「氏照、氏政は即刻切腹、氏直は一命を助け高野山に追放。」
これが秀吉の命令であった。秀吉は、北条氏照を氏政と共に北条家を実際に動かしているキーパーソンだと見ていたのである。
事実、氏照は「成り上がり者の秀吉などには屈しない」と秀吉との戦いを最後まで主張した主戦論者であり、事実上の北条家のナンバー2であるとされている。
そのため、秀吉は氏照の最後の居城であった八王子城に五万という途方もない数の兵を送り込み、たった一日で陥落させている。
「八王子には容赦などいらぬ。徹底的に攻め落とせ」
秀吉はそう命を下していた。そのため、八王子城では北条攻めで一番の殺戮が行われ、見せしめとされたのであった。
八王子城は氏照が秀吉らの攻勢に備えて丹誠こめて築いた城であった。氏照自身、それがたった一日で落ちるなど夢にも思わなかったに違いない。そのあまりにも早い落城が小田原城にいた氏照の戦う気を萎えさせたとも言われている。
さて、滝山城はその北条氏照が八王子城に移るまでいた城で、北条流築城の粋を集めて築かれたとされている城である。
そこには、今も、深い堀、高い土居、櫓の跡、兵の出撃場所であった「馬(うま)出(だし)」という北条氏独自の軍事遺構がよく残っており、戦国の城の愛好家にはたまらない魅力にあふれた城となっている。

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