関山合戦の真実

以上のことから、伊王野氏のまとまった兵が上杉の防衛線を簡単に突破して関山にまで進むことは考えにくい。
前回で見たように、関山山麓には上杉軍千余が布陣しており、その中を突破して関山に登るなど事実上不可能であろう。
『継志集』に描かれている「関山合戦」には、関山への登り道は傾斜がきついとあるが、それは山の南面、すなわち搦手のことで、本来の関山の大手は北側にあり、そこは傾斜はそれほどきつくはない。
そこが正式な関山のルート、大手道であったものと思われる。
上杉の兵も関山に登るとしたら当然このルートを使うであろうし、わざわざ背面の傾斜のきつい道などを使うはずはない。
また、伊王野軍もこの大手道を封鎖しなければ上杉の兵を防ぐことなどできなかったことであろう。
『継志集』にあるように、単に、材木や石を落としたくらいでは封鎖は難しい。

(関山城縄張図と概念図)
(洋泉社『北の関ケ原合戦』より)

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