ブログ 新府城外郭を築いたのは誰か? 私はこの巨大な外郭を自らの足で歩いてみて、そこから城にかけた勝頼の強い思いが伝わってくる気がした。しかし、現在、この外郭を徳川家康が築いたという議論が研究者の間でなされている。というのは、家康の家臣松平家忠が記した『家忠日記』等に家康が北条... 2020.01.23 ブログ
ブログ 今も残る新府城の外郭 新府城は当時の記録によると天正九年二月に普請を開始し、その一応の完成をみたのは十月であり、工事期間は実質八ヶ月という突貫工事で進められたという。だが、城が未完成というわりには、昼夜を問わずの突貫工事で八ヶ月も要している。これはいったい何を意... 2020.01.22 ブログ
ブログ 軍学者の解釈 城絵図というのは、単にそこに残っている遺構をただ機械的に筆記すればすむというわけではない。そこでは、どう城の構造を読み取るか、築城者の意図をどう解釈するかという謎解きにも等しい作業が要求される。その意味で完成した城絵図は、彼ら軍学者の力量を... 2020.01.21 ブログ
ブログ 戦国の城の外郭 外郭というのは、城の最も外側に築かれた防衛施設で通常は高い土塁、石垣や深い堀が構えられ敵を容易に寄せつけない構造になっている。そこでは敵の大軍を想定し、外郭で敵を防ぎ、城中に一兵たりとも入らせない構えでもある。また、外郭は城下町の外側に築か... 2020.01.20 ブログ
ブログ 浅野文庫にある「甲斐新府城」図と池田文庫の図 以下に見るように『浅野文庫』所蔵の図には大地を横断するように築かれた外郭がはっきりと描かれています。以下は池田文庫の図ですが、外郭は描かれておりません。 2020.01.19 ブログ
ブログ 甲州流軍学者たちのこだわり 城絵図の作成にあたっては、軍学者自らが実際に戦国時代の城跡に赴き、実地調査をして完成させたようで「古城平山城ナリ今ハ竹林ニテ」とか「昔ハ城ノ左右深田ニテ」などの注記が所々に見える。 彼らは、この絵図の作成を命じた藩主の意図に沿うようにていね... 2020.01.17 ブログ
ブログ 『諸国古城之図』の意図 『諸国古城之図』が編纂された時期は広島藩第七代藩主浅野重晟(しげあきら)の治世中、明和二年(一七六五)から寛政十一年(一七九九)と推定され、その当時は、大規模な開発行為が行われた現代とは違い、まだかなりの数の戦国の城跡が残っていたものと思わ... 2020.01.16 ブログ
ブログ 『浅野文庫諸国古城之図』 しかも、上杉家の後継争いでは、同盟者であった北条氏を支持しなかったため、それが原因で北条氏との同盟も破棄されてしまう結果になった。北条と上杉をはかりにかけたとき、今や上杉家は謙信時代とはほど遠い一地方勢力となり下がり、それは北条家との比では... 2020.01.15 ブログ
ブログ 高天神城の落城 高天神城はこれまで遠江の徳川領の中で、六年間、孤立しながらも何とか命脈を保ってきていた。さらに、城を守っていたのは、甲斐・信濃という武田氏の領国より集められていた直属の兵であった。それが分かっていたからこそ、勝頼はこれまでは何度も援軍に駆け... 2020.01.14 ブログ
ブログ 四面楚歌の勝頼 新府城を築いたころの勝頼は、織田信長・徳川家康はいうまでもなく関東の北条氏までも敵に回すという四面楚歌状態であった。勝頼は天正三年(一五七五)長篠の合戦で信長とぶつかり、そこで信玄以来の名だたる家臣を死なせ大敗していた。だが、武田家はそれが... 2020.01.13 ブログ