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関ケ原直前の小早川秀秋の動向

関ケ原合戦の前月、八月二十二日付佐々正孝が出羽の秋田実季に宛てた書状の中によれば、大谷吉継らは、前田利長の軍勢を防ぐべく越前木の芽峠に砦を築いて、小早川秀秋を城主として守らせるつもりであるとある。ここから、小早川秀秋は、越前方面の防備に主将...
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西軍、関ケ原への移動の理由

小早川秀秋は、関ケ原合戦の前日、松尾山城で守備をしていた大垣城の伊藤盛正とその兵を追い出す形で松尾山に入城した。通説では、三成らが十四日深夜に大垣城を出て関ヶ原に移動した原因が、去就が疑われる小早川秀秋が最重要の松尾山に入ったことから、大谷...
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小早川秀秋にジャックされた松尾山城

そう考えると、松尾山城には西軍の総帥毛利輝元、そして輝元が擁する秀吉の遺児で主君の豊臣秀頼を入れるつもりであったのではなかろうか。松尾山城に西軍の総帥である毛利輝元と主君豊臣秀頼が入れば、家康に従って来ている豊臣系大名は西軍に手出しなど絶対...
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松尾城入城者は西軍VIP

中国衆・毛利家の当主毛利輝元は西軍の最高責任者総帥として大坂城にいて豊臣秀頼を擁していた。秀頼はこのときわずか八歳ではあったが、天下人秀吉の唯一の遺児であり、この時点では、家康をはじめ全国すべての大名の主君でもあった。この秀頼を手中にしたこ...
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松尾山城への入城者は「中国衆」

そう考えると、松尾山の城の中心部である本丸に入るべき人物は貴人、つまり西軍のVIPであったのではないか。だから、それにふさわしい立派な門を配して格式を整えようとしたのではなかろうか。松尾山城の桝形虎口は、櫓を配したもので、南宮山のものよりは...
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立派な虎口をもつ松尾山城の意味

松尾山城本丸の周縁はすべて土塁で囲まれ、本丸の西にある虎口(入口)には櫓を備えたと思われる門の跡まで残っている。しかも、その門跡は『桝形(ますがた)虎口(こぐち)』で本丸の大きさから比べると比率的にかなり大きい。敵が本丸に攻めてきた場合を想...
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関ケ原方面を警戒している松尾山城

誰が何のためにこの松尾山に城を築いたのか。そのヒントの一つは、この城が明らかに関ヶ原方面を警戒した作りになっているということであろう。松尾山城は北の方角、つまり関ヶ原方面に防御を集中させていることが遺構を歩けばすぐに分かる。明らかに関ヶ原方...
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松尾山城は合戦に備えて築かれた新城?

小早川軍は関ヶ原合戦の前日の十四日に松尾山に入っていることから、この山城を築けるはずはない。むしろ、小早川の行為は西軍にとって重要な特別の場所であったこの城をジャックしたという方が正しいのかもしれない。山に立っていた看板を見ると、もともとこ...
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松尾山は山全体が山城

Fさんが軽トラックでナビをしてくれたおかげで、松尾山には迷うことなく最短距離で行くことができた。しかし、よく聞いてみると、Fさんも松尾山にはまだ登ったことがないという。そこで、二人で登ってみようということになった。松尾山の北山麓、つまり関ヶ...
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関ケ原松尾山への登山

関ヶ原でもう一つ興味深いのは関ヶ原の南にある松尾山である。松尾山は標高二百九十三メートル、それほど高い山ではない。しかし、この山は天下分け目の関ヶ原合戦の勝敗を決めたメモリアルな歴史をもっている。関ヶ原合戦最後の土壇場での勝敗を決めた小早川...