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佐和山城下「聞書」の謎7

こうして、井伊氏は直政の代で初めて徳川家に仕えたわけだが、家康は直政の力量を高く評価し、他の譜代の家臣以上に重用され、全面的な信頼を置いた。 そして、直政をはじめ井伊家はこの恩義にこたえるべく忠義を尽くして命がけで家康のために奉公したので...
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佐和山城下「聞き書き」の謎6

井伊家の歴史を記した『井伊年譜』によれば、佐和山は西国や中国の押さえとして、また京にも近かったために、家康は重臣で信頼の厚い井伊直政をここに配置したのだとされている。 さらに、『井伊年譜』は、家康が西国九州や中国地方の人質を佐和山において...
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佐和山城下「聞書」の謎5

慶長六年(一六〇一)彦根井伊家の祖、井伊直政は家康より石田三成の旧領の内十五万石と関東上野国(群馬県)で三万石、計十八万石を宛行われ、関東上野高崎城から佐和山城に入った。 佐和山城は当時、関が原合戦で落城しており、山頂にあった天守閣をはじ...
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佐和山城下「聞き書き」の謎4

しかし、井伊家はどうしてそこまでして石田三成の痕跡を消そうとしたのであろうか。 井伊家は徳川家康が最も信頼する家臣の一人であり、初代直政は徳川四天王の一人に上げられるほどの重臣である。 この直政は関ケ原合戦では、石田三成率いる西軍に真っ...
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佐和山城下「聞書」の謎3

明けましておめでとうございます。 本年もよろしくお願いいたします。 今年もつれづれに体の続く限り、語っていきたいと思います。 さて、昨年末から述べてきた「聞書」についてですが、「聞書」は何らかの原本をもとにして写本として今日まで伝わっ...
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佐和山城下「聞書」の謎2

「聞書」というのは、まさに、古くから伝わっていた「言い伝え」などをまとめたものであるが、それが今日までたくさん残されていたということは、それをどうしても後世に伝えたい、どうしても語り残しておきたいという、民衆のエネルギーというか強い意志がそ...
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佐和山城下「聞書」の謎

彦根市の図書館の歴史は古く、大正時代初期にはもう開設していたという。 そのことから、図書館はもう九十年近い歴史をもっていることになる。 そのため、ここには、彦根に関する古い文書がたくさん所蔵されており、まだ現在でも十分な整理ができていな...
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佐和山城と城下の消滅

石田会館を後にした私は、長浜から琵琶湖の湖岸道路を車で飛ばして、彦根市に向かった。 かつての彦根城内にある彦根市立図書館を訪ねるためである。 図書館には、彦根市独自の郷土資料がたくさん保管されており、ここに佐和山城破壊に関する何らかの資...
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昔、佐和山に登ったこと 27

しかし、その中でも石田村の人は精一杯の抵抗を試みた。 それが、八幡神社の裏に作った塚であったのではなかろうか。 あの塚だけは、誰も手を触れさせない村人の権力に対する精一杯の抵抗であった。 そして、村の誇りであった三成を、石田家を忘れな...
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昔、佐和山に登ったこと 26

石田屋敷を破壊した一団は、今度は石田家の墓地まで破壊の手を伸ばし、その墓石をも叩き割って、周辺に打ち捨てたのであろう。 それを村人が一つ一つ拾い集めて、石田家の守り神とされていた八幡神社の境内の隅にひっそりと塚を作って埋め、今日まで大切に...
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