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川中島合戦雑記22(越後国境に君臨する高梨氏)

一方の高梨氏は、北信に村上氏の勢力が浸透する中で、境を接する隣国越後の守護代長尾氏と連携を深め同盟することで高井郡北部を中心に水内郡北部にまでその勢力を及ぼすようになり、さらには現在の飯山市、中野市、山内町、木島平村など千曲川東岸地域を支配...
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川中島合戦雑記21(善光寺をめぐる二大勢力)

以上のように、川中島善光寺平には村上氏の勢力が大きく浸透していたことが分かる。 村上氏は十五世紀後半には千曲川・犀川の合流点までの川中島にその勢力を伸ばし、文明年間(一四六九~八七)には犀川を越えて市村・風間まで進出し、さらには小県にも進...
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川中島合戦雑記19(大文字一揆の武士たち)

また、主に犀川以北、善光寺方面を押さえていたのは大文字一揆と呼ばれるの領主たちであった。 彼らは、犀川流域を押さえることにより、犀川一帯の水陸にわたる交通路を押さえ、その流通に深く関わっていたものと思われる。 このうち、窪寺氏は善光寺か...
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川中島合戦雑記18(善光寺平の武将たち)

信濃北信地域は古代から同じ信濃の内でも中信、東信地域よりも日本海越後に近い文化をもっていた。 このことは、川中島善光寺平は単に信濃と越後の国境地域というよりも越後との結びつきの深い地域であったともいえる。 この地に、小笠原氏などの中央の...
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川中島合戦雑記17(善光寺周辺の城と防衛)

嘉慶元年(一三八七)の戦いのように、当時の信濃は守護と善光寺在地の領主たちを含んだ北信の武将たちとがしのぎをけずっており、善光寺周辺は常に軍事的に緊張をはらんでいたといえる。 守護所の詰の城として小柴見城、旭城がその背後の山に築かれていた...
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川中島合戦雑記16

室町時代、建武二年(一三三五)ころ、時の後醍醐天皇の命を受けた信濃守護小笠原貞宗はただちに埴科郡船山(更埴市)に守護所を置いた。 船山は小県、佐久、関東上野を結ぶ軍事的にも要衝の地であったが、その後嘉慶元年(一三八七)までには守護所は時の...
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川中島合戦雑記15

鎌倉時代、この善光寺付近には悪党と呼ばれる幕府に反抗的な武士たちが多く集まっていた。 それは善光寺のある地が宗教的な中心というばかりではなく、後庁という信濃国府の支庁が置かれたことからも分かるようにここが信濃北信地方の政治経済の中心であり...
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川中島合戦雑記14

鎌倉時代、善光寺は鎌倉幕府の創始者源頼朝も信仰をよせており、善光寺が治承三年(一一七九)焼失したときも、信濃の目代(国司の代官)などに命じて土木人夫を提供させている。 また、頼朝自身も建久八年(一一九七)御家人を率いて善光寺に参詣したと伝...
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川中島合戦雑記13

古代の善光寺への参詣は開かれたものではなく、巡礼者や僧などの宗教者が主であり、一般庶民の参詣はなかったようである。(『長野県史』)  この善光寺の名が全国的に知られるようになったのは、天台宗寺門派の本山である園城寺(三井寺)の末寺となって...
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川中島合戦雑記12

また、仏教も日本海から信濃川をさかのぼってこの地に伝えられてきており、それを象徴するように、信濃の古い仏像は信濃の北部にその多くが伝わっている。 その信濃北部の中でもこの川中島の地が仏教を早くから受け入れてきたことは事実であろう。 それ...
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