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三つの史料から見た小田原合戦 『日本史』秀吉、小田原合戦もう一つの野望

しかし、関白は運命にも所業にもきわめて恵まれており、また、非常に慎重で、とりわけ知恵と策略によって取引きする術に長けていたので、これらの諸城は孤立してしまい、中でも、北条殿が家臣たちから取っていた人質の大半がいた幾つかの城は陥落していった。...
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三つの史料から見た小田原合戦 『日本史』 苦戦する豊臣軍

『日本史』 秀吉は北条殿の国へ入り、幾つもの地点から戦闘を開始した。 北条殿は若干の城を守り抜くことを決意し、関白の軍勢の包囲と遭遇に備えた。 というのは、彼らにとって自ら出撃して野において関白と一戦を交えることは適当でないと思えたか...
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三つの史料から見た小田原合戦 『川角太閤記』北条攻め

『川角太閤記』 箱根山中城の攻め手は三好孫七郎(秀次)様、お供は中村一氏、田中吉政、一柳末直。 韮山の城は長岡越中(細川忠興)である。 家康様は、箱根より左へ付かれて、しん山の端を抜けられ、小田原を廻り、そうせん寺の原へ出られ、それよ...
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三つの史料から見た小田原合戦 『太閤さま軍記のうち』 小田原北条氏の滅亡

『太閤さま軍記のうち』 小田原北条氏の滅亡 三月二十九日、関白秀吉公は箱根山へ軍勢を入れられた。 中村源兵衛が法螺貝を吹き立てると、先陣は中納言秀次の軍勢がどっと山中の城堀へ飛び入り、先を争い、塀・柵を引き崩し、一団になって攻め入った...
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三つの史料から見た小田原合戦 秀吉、毛利輝元に聚楽第を預ける

『川角太閤記』 天正十八年に北条御追討のために、御馬を向けられた。 国より次第に人数を繰り出された。(中略)小田原までの東海道の城々に御番衆を入れられた。 安芸の毛利輝元が思うには、家康の次には自分が遣わされるだろうと思い、京都まで出...
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三つの史料から見た小田原合戦 秀吉、派手な演出で小田原に向けて出発

『太閤さま軍記のうち』 秀吉、小田原出馬 天正十八年(1590)三月一日、関白秀吉公都を発たれ、その日のいでたちはいつも以上にすぐれて華やかであった。 馬廻りもきらびやかで言葉も及ばないほどであった。 古き昔から、末代までの見物と天...
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三つの史料から見た小田原合戦 家康への警戒

『日本史』 「だが、この北条殿の領国に赴くためには、どうしても北条殿の義父にあたり、五ヶ国の領主である家康と称するもう一人の強大な武将の領地を通過せねばならなかった。 その近くには信長の息子で御本所(信雄)と称される別の領主が控えていた...
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三つの史料から見た小田原合戦 小田原征伐の動機

「秀吉と小田原北条氏とのこと 北条左京太夫氏政は、近年、諸国横領せしめ、ほしいままにあい働き、朝恩を忘れ、綸命(りんめい)にも応ぜず、公儀をないがしろに扱い申す。しかりといえども、秀吉公御慈悲をおびしめされ、上洛いたし、参内しかるべきと、...
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三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経緯⑥

しかし、秀吉が後に五奉行となる長束正家に与えた十月十日の書状には、小田原合戦のため、兵糧二十万石と馬二万匹分の飼料の準備を命じ、同じく越後の上杉景勝には来年関東陣における軍役を知らせている。 これは名胡桃事件が起こる二十日以上前であり、こ...
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三つの史料から見た小田原合戦 合戦の経過⑤

上洛が決まったのは、六月四日であったが、氏規が聚楽第で秀吉と対面したのは八月二十二日であった。 その場には、豊臣秀長、毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、織田信雄、家康、さらには菊亭晴季をはじめとする最高位の公家たちも参列し、ここに氏規は秀吉...
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