対上杉前線基地那須大田原城

(那須大田原城縄張図)
(洋泉社『北の関ケ原合戦』より)

対上杉最前線の基地として徳川軍によって大改修されたのが那須大田原城である。
この城は奥州街道の渡河地点を押さえる地点に築かれており、軍事的にも重要な城である。
二の丸・本丸は周囲を7,8メートルという高い土塁によって囲まれ、本丸虎口は櫓門が設けられていたようである。
本丸北西隅には櫓台があり、ここに櫓が設けられ、渡河地点を監視していたことであろう。
何より、本丸は小さな競技場を思わせるほどの規模となっている。
ここに、徳川の前線本部が置かれ、多くの兵が配置されていたことであろう。また、郭の周囲を囲むように大きな堀が設けられるなど厳しい防備態勢が取られている。
慶長5年(1600)六月には家康の家臣である石川重次、内藤忠清が普請奉行として大田原城に入り城の改修・普請が行われた。
そこにはかつての国人領主大田原氏の居城の面影などどこにもないほど、徳川軍によって改修され大城郭と生まれ変わった。
普請には、地元の領民など千人もの人夫が駆り出されたという。
この城には徳川方として下野皆川城主の皆川広照、家康の家臣で伊賀者を率いる服部半蔵正就の子正成が、那須衆の那須資景(当主資晴の弟)、福原資保(当主資考の弟)、伊王野資友(当主資信の弟)、大田原増晴(当主晴清の弟)千本木資勝(千本木氏の分家)らが地元衆として入り、守備を固めていたという。しかし、実際に主導権をもっていたのは、徳川衆であり、那須衆の入城は事実上の人質であったと思われる。

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