関山山麓の村を押さえた上杉軍

国境を村人が守っていたことをうかがわせる興味深い記録がある。
それは「元和八年(一五二三)に関山の地主秋場雅楽、穂積重右衛門が領主に出した書付である。
そこには、慶長5年、徳川と上杉の緊張が高まる中、関山の百姓たちの動きが記されている。
その内容は「慶長五年、上杉景勝会津居城の時、中條越前、長屋権四郎、また、白河の城代五百川修理下知として河東田大膳、中牧将監武頭にて地の侍、新馬上其上鉄砲百挺、隣郷百姓、関山の麓中野・内松・番澤・夏梨・十文字辺りに小屋を掛け、人数千余、七月の始めより九月中旬まで居候と也。(後略)」というものである。
ここにある中野・内松・番澤・夏梨・十文字という地名は当時の村の名であるが、現在もそのまま関山山麓に地名が残っている。
この内容から、白河の上杉軍千余は「七月の始めより九月中旬まで」関山山麓の村々に陣を張っていたことが分かる。
当時、上杉軍は白河の小峰城、白川城にも大量の兵を入れていたと思われるが、さらに国境に近い関山山麓にも大量の兵を配置していたのである。
だが、村々に陣を張るということは単に村を支配したということではない。
「隣郷百姓」とあるように、近隣の百姓たちも農兵として上杉軍を支え、さらには、関山山麓の村々も兵力として上杉軍に協力したということなのである。
「人数千余」という数字はそうした農兵をも含んだものであろう。

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