ポスト秀吉⑧

家康はポスト秀吉の外交方針として、平和外交を望んでいた。
家康は手始めに朝鮮出兵していた武将たちを日本に帰国させたが、それは明や朝鮮との国交正常化を早期にはかるためであった。さらに、家康は東アジアの他の諸国にも書簡を送って外国貿易の促進に向けて日本の門戸を開こうとしていた。
特に朝鮮に対しては、秀吉の死の翌年、対馬の宗氏に命じて講和交渉を行わせている。
朝鮮出兵でさんざん辛酸を嘗めさせられた朝鮮との交渉は予想以上に難航したものの、家康は十年かかって日韓講和を成立させた。(「慶長条約」
また、家康は秀吉が使者を送り、出兵をほのめかしていたタイ、カンボジア、ベトナムなど東南アジアの諸国との平和通交関係も積極的に行おうとしていた。
家康は開国主義を取り、平和外交を望んでいた。
その点では、家康にとって長崎でのポルトガルによる日本の貿易の独占は決して好ましいことではなかった。
家康は他の国の事情も知りたかった。
そのため、寺沢からの情報はポルトガル以外の国との貿易の可能性を示唆するものであり、家康は積極的に対応しようとしたのであった。

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