昔、佐和山に登ったこと⑤

だが、それは四百年前以上も前のことである。その屋敷地がなくなることは当然考えられよう。
しかし、それは、宅地開発などの造成事業や道路建設など、近年の開発で人為的にその土地が大きく改変された場合などであり、土塁や堀跡という人工的な構築物はそんなに簡単に自然に消失するものではない。
現に屋敷地の跡は地方に行けば、けっこう残っているケースが多い。
例えば、山梨県甲府市の武田信玄の館跡や長野県真田町の真田氏の屋敷跡などは、四百年前以上経た現在も土塁や堀の跡がよく残っている。
まして、石田町、特に、石田屋敷と推定される周辺は山がすぐ近くに迫り、周りはすべて田畑である。
ここには、そんな、屋敷地が消滅するような大規模な開発があったとはとても思えない。
逆に、この景色は何百年も変わってはいないのではないかとさえ思えるような場所なのである。  
しかし、今、現地を訪れてみると、屋敷地を囲んでいたであろう土塁や堀はおろか、屋敷地がどこであるかさえ判別できない状況である。
 現在、その屋敷地と推定される場所には、地元の住民の手で石田会館が建てられ、石田三成出生地を示す記念碑と「治部池」という屋敷の堀跡と伝わる小さな池がぽつんと残っているだけであり、その目印がなければ、そこが石田家の屋敷跡であるとは誰もが気付くことはないであろう。
 この場所が石田家の屋敷地と推定されたのは、ここの小字が三成の官職名「治部少輔」を示す「治部(じぶ)」であることや「お堀端」と呼ばれる小さな池があること、さらには「治部」の北側が「番場」という馬の調練をする馬場を表し、西隣一帯が「的場(まとば)」という弓矢などの練習場所を表す字名があったからだという。
 しかし、考えてみれば、この話はどこかおかしい。
それは、この小さな村に石田屋敷に関する確かな伝承がまったくないなどということは考えられないからである。
石田家は百年以上もこの村の領主をつとめた家であり、いくら時代が変わったからとはいえ、それが完全に忘れ去られることなど常識的には考えられない。
そこには屋敷跡に関する何らかの伝承が当然残ってもいいはずである。

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