ポスト秀吉①

慶長3年(1598)秀吉の死直後の状況
秀吉は天下統一にあたって、戦国大名たちから多くの領地を奪い、中には伊達政宗のように本拠地までも移された大名もいた。
彼らにとって、秀吉の死はそれら旧領を奪還する大きなチャンスであった。
ここに、日本は再び戦国時代、群雄割拠の時代になる大きな可能性をもっていた。
奥羽の伊達政宗は先祖伝来の地、伊達・信夫方面の奪還、かつての本拠地会津黒川(会津若松)の奪還などを目論んでいたと思われる。
現在の伊達の本拠地岩出山城は秀吉から強制的に与えられた城で縄張りも豊臣家によって施されており、伊達にとっては納得のいかない処置であった。
また、上杉家はこれも秀吉の命令で豊かな越後から内陸の会津に移され、再び越後、佐渡そして日本海の流通の拠点の奪還を企てていた。
中国の毛利は北九州博多、豊前、四国の伊予、阿波を手にして九州から瀬戸内海の流通を独占する野望を抱いていた。
これらが、秀吉の死後、大きなうねりとなって噴出しようとしていた。
ここにおいて、豊臣政権の求心力が大きく低下するのは必然であった。 

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