毛利輝元の命を受けていた安国寺恵瓊

光成準治氏は、その著『吉川広家』において、恵瓊が毛利勢を率い、南宮山山頂から下る最前列に布陣していることから、毛利勢の先陣は吉川ではなく、安国寺であり、そこから、毛利勢の不戦には安国寺恵瓊の黙示的了承があったとしている。
南宮山布陣後、安国寺は大坂城にいる毛利輝元の意を受け、美濃で領主たちが離反する状況を輝元に伝えていたことが分かっている。
ここから、安国寺はその後も輝元と連絡を取り続けていた可能性は高い。
関ケ原合戦の3日前、9月12日付で毛利輝元が家臣の増田元祥に宛てた書状の中に「追々様子申し越され(中略)安国寺・福式その面の事候条、申し談ぜらるべく候」とあり、ここから、輝元は恵瓊と共に福式(福原広俊)と連絡を取っていたことが分かる。
福原広俊は吉川広家とはかり、井伊直政らとの間に不戦の起請文を交わした中心人物である。
そこから考えられることは、毛利輝元自身は不戦の密約を知っていた、というより、そこに福原の名前がある以上、不戦の密約は輝元の了解のもとに進められた可能性が高いということになる。
そこから、安国寺は吉川の動きをすでに掴んでいた可能性もある。

タイトルとURLをコピーしました