昔、佐和山に登ったこと⑩

三成は佐和山城主になると、さっそく、城の改修にとりかかった。
わずかに残る当時三成が出した文書には天正十八年(一五九〇)「『佐和山惣構部普請』にあたって四郡の百姓たちを動員したい」とあることから、城は「惣構(そうがまえ)」つまり、城の外郭部の普請を行ったことが分る。
外郭部というのは、城下町を囲む防御施設のことであり、そこには堀が掘られ、石垣や土居が築かれ、塀や櫓も設けられたことであろう。
佐和山城はこれまでの城の城地を大きく広げられ、さらには軍事的にも充実されたことが分かる。
 佐和山城については、その規模や建物の様子を示す当時の確かな文書がまったく存在せず、また、現在城跡が完全に破壊されていることなどから、三成がこのときどのように城を改修したのかは分らない。
 ただ、現在までに伝えられている江戸時代中期に行われた佐和山城に関する聞書、城跡の古図、地元に残る踊り歌、さらには、佐和山城跡でわずかに採取された瓦によってほんの少しだけ推定することはできる。
 江戸時代、享保十二年(一七二七)に彦根藩井伊家が家臣たちに命じて調査させたとされる『古城山往昔之物語聞書』によれば、佐和山山頂には二丈五尺(約八メートル)の石垣が築かれ、その上に「五重之天守」が建てられていたという。
この天守は「鯱鉾など曇り候時は見へ申さず高さに候」とあり、曇天の日などは天守閣の屋根の最上にある鯱鉾(しゃちほこ)に雲がかかって見えないほどであったという。
 また、この聞書や古図によれば、佐和山城には山頂の本丸の他、そこから派生する尾根に西の丸、二の丸、三の丸、法花丸、太鼓丸、土佐殿丸などと呼ばれる郭(くるわ)があり、山頂の本丸の北側には塩櫓、南側には月見櫓が建っていたという。

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